あたたかな匣

バスタブにお湯を張りながら、そのゆらゆらと揺れる水面を眺めていた。
湯気の立つ水に手のひらを浸せば、なるほど、温かい。
それからずっと、お湯が溢れるまでそうしていた。

ザアア……。
流石にまずいと湯を止める。
そのまま、服のまま。バスタブを跨いで、中へ。
ザアアア……!
先ほどよりも多く、長く、湯が流れていく。
ヒヨコでも浮かせておけばよかった。
1度張り付いた服が、今度は湯の中でひらひらと泳ぎ出す。
顔を湯に沈め、また出す。髪の毛が張り付く。ただそれだけの事がなんだか面白い。
張り付いた髪を後ろに撫でて流し、うんと伸びをする。
湯から出た肌が少し冷える。濡れた服が張り付く。
ああ、君を感じる。
でも触れてはいけないんだ。魔法が解けてしまうから。
バスタブから出て、服を脱ぐ。脱ぎにくい。
脱ぐ。脱ぐ。
それから脱いだ服を絞って、外の籠に放る。
生まれたままの姿というやつだ。
鏡の前でポーズをとってみた。なんだか間抜けだ。
髪を洗い、コンディショナーを塗り込む。手早く流してしまって、体も洗う。君を意識する。強く意識する。
君に触れられていると思えば、この体に触れる気味の悪い僕の手のことも考えずに済む。
湯を浴びる。
息が出来なくなればいい。溺れてしまいたい。
それでも。湯を止める。
壁を伝う泡を残したまま、それらを横目に風呂場から出る。
 
ふわふわとしたバスタオルで髪の水気を吸い取り、体の水分も吸わせていく。
タオルを肩に掛けて、もう1度お風呂場に戻る。
シャワーを掴み、捻る。泡を退治する。
君はもう居ない。ここには居ない。
お湯を止めてシャワーを転がす。
 
さあ、君の声を聴きに行こうか。

街灯、エプロン、煎餅

街灯のない暗い道をスマートフォンの明かりを頼りに歩く。
仕事帰りにこの道を通るのももう慣れた。近道なのだ。
 
長く思えた道を歩き切り、冷えた手で鍵を探していると、ガチャリと音がしてドアが開く。
「おかえりなさい」
「……ただいま」
広げられた腕に応えてやると、嬉しそうにはにかむ。
体を離すと薄桃色のエプロンをしている。
そういえば中からいい匂いがする。
家に入ってスンスンと匂いを嗅げば、お風呂も沸いてるよと柔らかな声。
こんな日も良いものだ。だが違う方の腹が空いた。
 
女の手を引いて薄っぺらな布団へ。
優しく倒して何度かキスしてやれば、瞳をとろりと潤ませる可愛い女。
先ほどまでエプロンを付けて俺の為に料理を作っていた楚々とした女性が女になる瞬間に、堪らなくそそられた。
布団の上でもつれ合い、高め合う。聞こえるのは荒い呼吸と高く切ない叫び声。それから打ち付けるような湿った音。
仕事のストレスをぶつける様に嬲れば、うっとりと焦点が合わなくなる。
 
意識無く、ただ反射の様に声を漏らすようになった女から離れて台所に行くと、鍋には少し冷めてしまった肉豆腐があった。
適当な皿に盛って食べながらぼんやりと考えるのは、この女は誰だろうということだった。

 

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瓶、ペン、音

星の詰まったキーホルダーを手に、君はうっとりと微笑む。
それを横目に、僕は今手紙を書いている。
夜色の液体にペン先を慎重に付け、想いを綴る。
気持ちが文字から漏れていってしまわないよう、慎重に、慎重に。
誰も口を開かない空間で、シャッシャッという音だけが響く。
「書けたよ」
これは彼女に依頼された恋文。彼女から託された、彼女の想い人への気持ちが篭っている。
「本当?」
手紙をチラリと見た後、僕の目をじっと見詰めた。
それからブーツ特有の威嚇音を鳴らしながら近寄り、僕の手から手紙を勢い良く引き抜くと、そのまま後ろへ投げ捨てた。
「ちょっと……!」
同時に。
君が僕の唇を覆う。
それから暫く、僕はその温度と感触以外を知覚できなくなった。
なんてことだ。僕が綴った想いとは。
僕の胸に刺さったのは、恋の矢よりも鋭い、愛を綴った僕のペン。

冬の終わりに君は哭く(仮)2

冬を殺すのは案外簡単だった。
 
 
 
雪の降る早朝。まだ明るくなりきらないその時間に、彼女を海に連れ出す。まとわりつく冬も楽しそうだ。今だけは許してあげる。
冷えた彼女の手を引けば、とても楽しそうに着いて来て、2人で服が汚れるのも構わず寄り添って砂浜に座った。
静かな朝だった。空気は痛いほど冷えていて、頭のもやも消えていく。
 
そうだ、クッキーを焼いたの。
そう言ってポケットから、ハンカチに包んだ少し割れてしまったクッキーを取り出せば、彼女は嬉しそうに口へ運ぶ。
人を疑うことのない、純粋で可愛くて綺麗なあなた。
ごめんね。これは仕方の無いことなの。
あなたを守るためには、こうするしかなかったの。
暫くすると私の太ももを枕にして、すっかり眠ってしまった。
穏やかな気持ちで頭を撫でてやると、頬を寄せてむにゃむにゃと笑う。
絶対に守ってみせるから。
 
起こさないようにそっと、太ももに感じる冷たい重みを下ろす。私が離れると、冬はまた愛おしげに彼女の頭を撫でる。
それを尻目に予め用意しておいた斧を取りに行き、ゆっくりと持ち上げ、彼女の首に勢いよく落とす。
止めようとしても無駄よ。だってあなたは生き物には触れられやしない。
彼女の首はとても細くて、 簡単に砕けた。
冬は明るくなり始めた空に高く高く哭いて、それから彼女と同じように砕けた。
 
 
 
冬は死んだ。
私は彼女との幸せな時間を守ったのだ。
彼女と共に生きるのは、私だけでいい。

赤く染まる

※気分を害する可能性があります。

 

 

 

 

鈍く光を反射する赤銅色の河の真ん中で、わたしはずっと立っている。ずっとがどれくらいずっとかは、とっくのとうに忘れてしまった。
赤い水は膝より少し低い所まであり、お誕生日の真っ白なワンピースが赤く染まらないようにと、わたしは裾を太もも半ばまでたくし上げる。
いつからそうしているのかわからない。ずっとは本当にずっとだったろうか。
昨日からかもしれないし、1週間前かもしれない。もしかしたらひと月以上前かも。
でも少し前までは川の前にいたような気もするのだ。
それなのに、気付けば河の中心に立っていて、それも河の水はくるぶし程だったはず。
前を向けば河を渡る人の様なものの群れ。
それらがざぶざぶと河を横切る。
それに触れると心が冷えるので、わたしは時折伸ばされる手を全て見なかったことにする。
前に寂しげに揺れる手を取った時、悲しい記憶に襲われ、暫くの間涙が止まらなかったのだ。
そしてその涙で河は更に赤みを増していった。
ふと喉が渇いているような気がして、両手でおわんを作り、赤をすくい上げて飲んでみた。
熱いような、冷たいような、辛いような、苦いような。それでいて何だかクセになる。
もう一度、もう一度と口に運ぶ度に、少しずつ瞼が重くなる。
ふと下に視線を落とすと、真っ白なワンピースの腰まで赤に浸かっていた。そこから上に上にと赤が這い上がる。
ああ、わたしの白は汚れてしまった。
いいえ。わたしは真っ赤なワンピースが欲しかったのよ。
そこでわたしは、わたしの愛していた世界は。
 
それは、とても静かな朝でした。
真っ暗な世界で、母となった人の体温と震える空気を、薄く開いたままの唇に押し付けられる柔らかな乳房を感じながら。
わたしは確かに産まれ、それでもこの世で生きることは出来なかった。

片思い、猫、燃え滓

しなやかなる獣を想う
辛いときも、楽しい時も
私は貴方を想う
貴方に強く抱き締められると
背筋が伸びて気持ちが良い
そしてそっと頬を寄せる
とても温かく、満たされる
貴方が去る日を思うと
心が寒く、燃え尽きたようになるのだ
それでも私は貴方を想う
どれだけ振り回されようとも
 
 
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林檎、ボール、帽子

何処までも続く真っ白な階段の上。上を見ても左右を見ても真っ白。
そんな世界で、いつの間にか僕は座っていた。
上には階段が続いていて、下にも階段が続いている。
階段は左右に広く、端まで行ってみたら、崖のように途切れていた。

下を覗いていた時だった。
突然空気が変わる。
上から大小様々、色とりどりなボールが落ちてきた。
慌てて階段に身を伏せ、落ちないようにと身構える。
ボールが当たる度に声がした。
 
「馬鹿なくせに」「どうして生きているの?」「変な声」「このノロマ」「君に感情は無いの?」「君が産まれたのは間違いだった」「不細工」「気持ちが悪い」「死ねばいい」
 
胸が痛む言葉ばかりだった。
痛くて痛くて、当たった所が裂けて、血が出ているのではないかと思った。
ボールが階段を落ちていって、体を起こすと、胸に頭より小さな真っ赤なボールがあるのに気付いた。
 
「君は、とても優しいね」
 
いつだったか、誰かに言われたような気がする、温かくて優しい言葉だった。
ボールを抱えて立ち上がる。
 
僕は階段を下りることにした。
下りたら、日常に戻れるような気がした。
辛い事ばかりじゃ無かったはず。
こうして、僕のことを認めてくれる人だっていたんだ。
ゆっくりと階段を下りだした。
 
長い長い階段だった。
時々僕に挨拶していく人も居た。
上っていく人とハイタッチしたり、僕より早く下っていく人を見送ったりした。
 
どれくらいの時間が経った頃か。
白い中折帽を深く被った人が階段で屈んでいた。

「どうかしましたか?」
そう声を掛けると、帽子の人は顔を上げた。
息を飲む。
帽子は直接首に乗っていた。頭が無かったのだ。
その人はおろおろと手を動かして、暗く沈んだ声で「頭が無い、私の頭が無いんだ」と呟いた。
何とかしたいと思い、辺りを見渡してみても、頭らしきものは何処にも無かった。
 
ふと手にした赤いボールに気付く。
温かなこのボールなら、きっと心も晴れることだろう。
帽子の人にボールを差し出した。
少し戸惑った後、おずおずとボールを手にする。
そして頭に乗せた時、その人は確かに微笑んだ。
「ありがとう。お礼と言っては何だけど、この林檎をあなたに」
 
とても元気になったその人は、階段を上がるようだったので、そこで別れた。
真っ赤なボールの代わりに貰った林檎はとても美味しそうで、服で少し吹いて上に掲げてみた。
その時真っ赤な林檎が口を開ける。
「君は、とても優しいね」
僕はにっこりする。
「君はとても優しくて、とても利用しやすい」
 
 
気付けば僕は、階段の端から落ちていた。
何処までも、何処までも深く。
この階段を上っていたなら、どうなっていたかな。僕は、どうなっていただろう。
たくさんの事が頭に過ぎっては消えた。
 
 
そうして林檎は真っ赤に潰れましたとさ。
 
 
 
「知ってはいけない、魅惑の果実」
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